明けましておめでとうございます。
年明け1回目の投稿は、天祖神社がなぜ神明様と呼ばれることがあるのか、
亀戸二丁目町会の副会長:道場さんよりお聞きしたので掲載させていただきます。
「神明様と天祖神社」
ご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんが、亀戸3丁目にある「天祖神社」が「神明様」と呼ばれることがあります。 今回は、天祖神社の呼び名がなぜ二通りあるかについて考えましょう。
私は子どもの頃から「神明様」と呼んでいるので、こちらの方に親近感があり、「天祖神社」と声に出すと未だに違和感があります。
天祖神社以外でも呼び名が二通りある神社は他にもあります。
例えば、神田神社は神田明神とも呼ばれます。江戸時代は神田明神ですが、明治政府の方針で仏教系の「明神」は使用禁止になり、神田神社になりました。
根津神社は江戸時代には、根津権現と呼ばれてましたが仏教系である「権現」も使用禁止になりました。そもそも「権現様」とは徳川家康の別名ですから、明治政府からすると、とんでもないと言うことになります。
では改めて、神明宮がなぜ天祖神社と呼ばれるようになったのでしょうか。
「宮」は明治以降、一部の神社しか認められませんでした。
伊勢神宮、香取神宮、鹿島神宮など、天皇家と特別な関係もつ神社のみ認められました。柳島の神明宮などの村社はすべて天祖神社と改称させられました。
しかし、戦後は国の制度が変わり、現在の呼び名でも江戸時代の呼び名でもどちらでも構わないということになりました。
深川神明宮は戦前まで天祖神社でしたが、戦後は深川神明宮に戻しました。
柳島の天祖神社は、近衛文麿公の扁額が幸いにして空襲から守られたので、天祖神社をそのまま使用することになりました。
それで、江戸時代の呼び名「神明様」と明治以降の「天祖神社」と言う二通りの呼び名が残ることにました。
亀戸2丁目町会;副会長 道場さんより
扁額に揮毫されている文字は、「天祖神社 大禮使長官公爵 近衛文麿」と記されているのもこの為です。
いかがでしたでしょうか?
天祖神社自体を知らない方もいらっしゃるかもしれませんが、亀戸七福神の1つになっている神社です。
これを機に行ってみてはいかがでしょうか?
道場さんは地域のガイドもされているので、またこのようなお話を聞けましたら、HPにも掲載していく予定です。 次回もお楽しみに!?