今日は亀戸二丁目町会の方には馴染みの深い、文泉公園の名前の由来を亀戸二丁目町会の副会長:道場さんよりお聞きしたので掲載させていただきます。

「文泉公園」の名前の由来
この公園が造られたのは、私が小学生のときでした(昭和32年)。 父に何で文泉公園と言う名前が付いたんだと聞くと、「はいぶんせん」と教えてくれたが、何ことやらチンプンカンプンでした。 大人になってから「背文銭」と分かりましたが、何で「銭」が「泉」になるんだあと不思議でした。それから何十年も過ぎ、爺になってから、やっと分かりました。
日本は、昔から縁起の良い文字に置き換える習慣があります。それで、「文銭」が「文泉」になりました。ところで、背文銭とは何だと思われる方もいると思いますが、亀戸二丁目団地の場所には江戸時代に銭座があり、寛永通宝が造られていました。ここで造られた銭の背面に文の字がありましたので、亀戸銭座で造られた銭は背文銭と呼ばれ、ここで造られた銭の枚数は数億枚ぐらいと推測されています。幕府が直接管理していたわけでないので、正確な枚数は分かりません。
実は、文泉が使われたのは、公園が初めてではありません。昭和17年(1942)に亀戸駅前公園に存在していた第一亀戸国民学校(児童数 2,200名)から現在の第一亀戸小学校の場所に文泉国民学校(児童数 600名)が分離独立しました。
それで、私が父に聞いたときに、即座に「背文銭」と答えたのだと分かりました。

道場さんの体験談より

いかがでしたでしょうか? 知っていそうで知らない内容でしたよね。

道場さんは地域のガイドもされているので、またこのようなお話を聞けましたら、HPにも掲載していく予定です。 次回もお楽しみに!?